感情が流れた!
今朝の起きぬけは、心も体も不安でいっぱいでした。それを体のどこで感じてるかを感じ、さすってみました。
不安や恐怖などを言葉にし、感じていました。そうしたら、その部位を囲むように体がものすごく熱くなって、その熱さとともに感情が本当に1分くらいで流れていくのを感じました。
初めて感情が流れた体験だったので、こういうことなのかな?!と思いました。
とても嬉しかったです。
涙は感情的反応?
今日は夫とカラオケに行きました。
ミュージカル女優になりたい!と昨日書いたことから、どんな辛い時も私の人生をずっと応援してくれた歌「マンマ・ミーア!」からダンシング・クイーン、「リトル・マーメイド」からパート・オブ・ユア・ワールド、私の心にずっと寄り添ってくれたAquaTimezの歌を歌いました。
カウンセリングに行くことができない状況の時でも、ふと流れてくる音楽やメッセージは自分を癒してくれます。本当に生きることを支えてくれるツールだと思いました。
呼吸を意識し、腹の底から感情を乗せて放ち全身で歌うことができ、こんなことは初めてで、魂が震えるようでした。もう涙が溢れました。
メルマガで美穂子さんは「泣いてはいけない」と思うときに涙は出る、とお書きになっていたような・・カラオケの時の感情はもしかしたら「堪えられない幸せ」で、その堪えられない感情にフタをするように涙が感情的反応として出るのかな?と思いました。
マゾキストの愛のエッセンス
私の夫はスキゾイドとマゾキストがありそうです。彼はディフェンスをほとんどしないので、憧れます。こういうふうにいればいいのか、と勉強になります。
今日は夫の大きな愛に包まれ
本当に本当に体も心も温かく、幸せでした。
ただただ隣にいるだけで、温泉に入っているような温かさでした。
今でこそ、性交とは愛を与える・受け取るの循環だと知りましたが、性虐待からは欲望のエネルギーを受けとってしまいました。
そして自分からそれを求めるようになりました。オーガズムは侮辱と屈辱で得るものだと思い、結果、子宮は病気になってしまいました。子供はそんな欲望から生まれるものかと思い込み、辛い時期もありました。
出会った夫とも、レイプのような性交を望み、受け入れ、何をされても我慢していましたが、性について真正面から取り組んだ結果・・
夫との性は 愛に変わりました
心も体も満たされる性愛にやっと出会うことができました。もう、侮辱と屈辱からオーガズムを感じることも全く必要なくなりました。
男の子は中学生くらいで欲望のビデオや本に振り回されてしまい、それでお金儲けする大人もいる。
かつての私も、欲望のためにたくさんそういうものを欲し、孤独を感じ、自分を傷つけていました。
小学生の女の子は生理について教わる時間がありますが、1999年、私の学校では、女の子だけ「お掃除の時間」と称して男の子と別室にされ、女性の先生は教室のドアをぴしゃりと閉める。男性の先生にすら秘密にされている。
誰も来ないか確認すると、恥ずかしそうに生理の説明を始める。「このことは絶対に男子に話してはいけませんよ」と言われ教室に帰ると、男子は「エッチなことでしょ~?」 と問いかける。
生理がくると皆「なっちゃった・・」と暗い顔でいう。
でも今、やっと、私は、生理が来ると、涙が出るほど嬉しくなった。生理痛だって、ちゃんと自分の体とお話すれば、軽減できる。
性には欲望もある。でも、性は愛と繋がっている。その愛を守ること。それを小さい子にも伝えたい。そして、私のように欲望の泥沼にハマっても、ちゃんと愛に目覚められるということも。
全身スキャニング
朝起きたら
精神的な落ち込みと、肩の痛みがあったので
体とお話することにしました。
尚美さんのヒーリングを受けてから、
体にアクセスしやすくなりました
肩 こわい
首 あきらめ
頭 疲れ
腕 怒り
手 不安
胸 焦り
お腹 怒り
子宮 自己否定
スキゾイドでしょうか、「足はまた今度」にしてしまいました。
各部位で感じた感覚を実際に感じてみました。すると今までの凝りの感じが消えていきました。
肩に何か刺さってる感じがしたので抜いていくイメージをしてみました。
胸のあたりをさすって「焦るよね、焦るね」
と言いました。とても安心しました。
卵巣だけは、なんだかウキウキしていました。嬉しかったです。
気づいたのは、私の体はこんなにネガティブ感情でいっぱいになってるのか!と・・・
そりゃ、疲れるよね、頭さん、と・・・
愕然としました。
気づいてあげること、大事なんですね。
怒り
一回目の授業後からすぐに感じた感情は
「怒り」の感情的反応からでした
職場の女性の先輩が私に怒っている場面
背中を地面に着けて手足をバタバタさせる、全身で拒否するような、赤ちゃんの行動が出ました。「違う!違う!全然違う!私が欲しいのはそれじゃない!」という言葉
母に怒られている時にこの感覚になっていたと思います。
もっと前、オムツじゃない、おっぱいなのに、という部分かもしれません。
平常時に父母が私を褒めたり、何かを差し出されても「それは私の求めているもの(心と心の触れあい)ではない」「全然分かってもらえない」という絶望の感覚も思い出しました。